展示品ギャラリー
吾嬬絵姿烈女競
月岡芳年:吾嬬絵姿烈女競(あづま・えすがた・れつじょくらべ)/種田妾小勝
「小勝女ハ元東京日本橋大工町の芸妓にして美人の聞へ高く曳手数多(ひくてあまた)に時めきしか去(さんぬ)る年熊本鎮台種田君に思はれ君諸共に該地に至り操正しく暮せし内明治九年の十月下旬思ひも寄らぬ仇嵐暴徒の為に君を討れ残る小勝の悲しみハ共に消たき思ひなりしを人の諫めに是非なくなく惜からぬ身をなからへしに翌年二月西海に再び白波立さハぎ遂に熊本籠城の際兵士何某に深く慕はれ既に腕力を以て志を遂んとせし時女なからも甲斐がひしく大義を以て説諭せしに兵士も大に悔悟して国家の為に打死せしハ小勝の貞操節義心もやさしくかなよみの新紙に美名を残せしなり」
表題と詞書にある「種田」は旧薩摩藩士の種田政明。明治6年に陸軍少将となり、明治9年(1876)9月に熊本鎮台司令長官に就任したが、同年10月の熊本神風連の乱で小勝と就寝中のところを襲撃され殺害された。小勝が事件後に親元に送った電報「ダンナワイケナイワタシハテキズ」(旦那はいけない、私は手疵)は、明治草創期の電文として史上に残る。